富校のおもいで
 富校での懐かしきあのおもいでを、つれづれなるままに書いたものです。
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高校総体での富山高校生 昭和54年中部高校卒(富校換算91回卒) 1/18
昭和54年富山中部卒業生です。現在富山医薬大付属病院勤務です。中部のホームページよりこちらの方がおもしろいです。加えて校歌は富山高校の方がすばらしいです。
くやしー。富山高校に行けばよかった。
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 私は高校生の時、電車通学(今はJRですね)だったもので中学時代はあまり富山のことはよく知りませんでした。高校3年間で多少は知ったつもりです。大学そして社会人となって高校生活と併せると約27年あまり富山で生活していることになりますが、やはり故郷(といっても黒部市ですけど)は懐かしいものです。

 富山高校の方とはほとんど交流がありませんでしたが、高校総体の時、(私山岳部でした。でも富山高校のそれと比較するとキャンプ部といわれてもしかたありません)富山高校生と一緒でした。私が山から帰って2日後に標準テストがあるといって嘆いていたら、その高校生の方は(名前はわかりません)、帰った翌日から実力テスト?があってどうしようもないとこぼしていたのを今でも覚えています。実はそのとき、英語のチャートを持っていたのですが、雨降り、テント設営、その他もろもろで読む機会もなく(当たり前ですね)、家に帰ったら本がびしょぬれで使いもにならなくなっていたことが思い出されます。

 高校を卒業してもう24年たちますが、あのころの思いでは宝物です。中部は決して勉強を強要する所ではありませんでしたし、校風も自由だったと思います(すみません富山高校に入ればよかったといいながら、子供には中部に行ってもらうつもりです)。

 いろいろ長々書いてしまいました。つまらない内容ですみません。高校は違うけど昔を思い出させてくれる富校の杜はすばらしいと思います。

制作者並びに関係諸君にエールを送ります。
どうもありがとう

富校の思い出 102回卒 才木智恵子 6/16
 春になり、生徒の中には中学生になった子や、高校生になった子もいます。 その中に、マイ母校の制服発見。気品とダサさあふれるマイ母校の制服。 というのも、富山では御三家と言われる3つの進学校の中でも1番歴史が古いのが、母校「富山高校」。 略して富校。ちょっと久々に振りかえってみたりして。。

まずは入学式。入学してすぐに、1年生はテストで歓迎される。あまり喜ばれない歓迎の仕方である。 その名も「入学おめでとうテスト」。(このネーミングがおめでたいっちゅうねん。)
 中学では10本の指に入ってたような人が集まる高校で、上には上がいることを実感する瞬間。 我ながら中学までは神童と呼ばれ、はっきり言って全教科得意教科だった私は、自身満々準備なしで受け、結果も心配してなかったけど順位は半分以下。 おまえら、やるやないかー、よし、こっち来い、まんじゅうやろー。と思いました。
 まあそれ以降順位は下降しつづけ、私ってば神童じゃないぶぁい、っていうか庶民ぶぁい、へけっ♪となっていくのでした。 “1位になったら10万円”の賞金が才木家で掲げられましたが、達成できるはずもなく。まあできないから10万だったんやろーけど。
 その後決めるのが学級代表。ふつう学級委員とかクラス委員とかって呼び方だと思うけど、 マイ母校では“組長”。なかなか貫禄ある響きである。カタギではなかなかされない呼ばれ方である。 だいたい外見がまじめそうで、制服とかに乱れのない人が推薦されるものであるから、またおかしい。
 今思い出したけど、わたしは組長でもなんでもないのに、1年の時のあだ名が「姉御」でした。。 っていうか「あねご」?「アネゴ」?「A・NE・GO」?どう変換してもカワイクは聞こえない。あーかなし。

考えると富校には他校と比べてあるものや、ないものがありました。
 まずは「下駄箱がない」。なんとなくアメリカン♪全館土足。あ、体育館だけは内履きならぬ体育館履きをはく。 めんどくさくなくていいんだけど、ラブレターをどこに入れたらいいのやら、入れられたらいいのやら。
 次に「カーテンがない」。ブラインディングシステムとなっております。光を調節できる自由を与えられた喜び。 光は浴びたいだけ浴びたいもの。基本的人権だもの。
 あと「屋上がない」。雪深い土地柄だからか、屋根仕立てになっております。なので上れるはずもなく。 屋上deランチ、屋上昼寝、屋上告白、屋上キス、屋上ビンタ、屋上飛び降り、などあるはずもなく。
 そして極めつけ「時計がない」。この学校、ビンボー?そう疑う瞬間でした。 「と・や・ま・こ・う・こ・う」貧乏・大臣・大大臣、貧乏・大臣・大大臣、貧乏。…やっぱり。 たぶん授業中とかチラチラみることへの配慮??そう信じたい。。

先生方の特徴は度を越して熱心、宿題がハンパなかった。絶対塾へ行かせないという意気込みが感じられた。 「学校で出された勉強してれば充分だ。それだけで家庭学習4時間になるようにしてあるから。」だそーだ。 それだけ出しておいて「富校生は文武両道がモットーだぞ。」だそーだ。 しかも「これは予習であって宿題じゃない、ラッキーだなーお前ら♪」だそーだ。 うーん茶目っ気たっぶり。
 部活やってない私もまぁきつかったから、部活やってた人たちはどんなけきつかったか。ほんとに偉い。
 年に1回か2回生活実態調査を書かされるんだけど、これも朝ご飯は食べてるか、とかどの教科を何時間勉強したか、など細かく書かされて面倒。 しかも記入例のグラフの睡眠時間が4時間。なにを求めとんねん!!!死ぬわ!!!っていうか間違い?間違いですよね?

母校愛 102回卒 畠山拓郎 4/19
 102回生の畠山拓郎です。
高校生のときは休みまくりで、なんとか規定日数をクリアしました。
山ばっかやってたかな
受験とか嫌いでね、でも現役の高校生たちは勉強も一応しといたほういいとおもうよ、他校を問わずね。

「かわいさあまって、にくさ100倍」
卒業したあとすぐは憎んだよ
ほんときらいだった

いまでは、少し誇らしく思ってます。

吉川校長先生 92回卒 T.Y. 3/11
 現在、仕事で南アフリカ共和国に駐在して3年になります。 昨年12月に一緒に滞在していた家族が、長男のヨハネズブルグ日本人学校(中学)を卒業にあわせ日本での高校受験に備えるため、一足早く帰国しました。 こちらで日本の高校受験の情報を取るためインターネットをよく利用していました。
 富山高校卒業後東京に出てから一度も母校を訪れることも無い不義理者ですが、先日何気なく富山高校のホームページを見ると東京富高会のレポートで見覚えのある校長の写真が載っているではありませんか。 とても懐かしく思い出されメールしました。
 吉川先生は確か私が富山高校に在学していた頃、新任の数学の先生だったと思います。 当時の数学の授業で吉川先生は、左手で教科書を持ち、ひじを45度くらいの角度に曲げたまま固定し、直立不動で淡々としゃべられる、非常にまれに受けないジョークを言っては一人でニヤッと微笑む、たしかそんな先生だったと記憶しています。 しかし写真で見る限り当時と変わらないですね。

野球漬けの日々 89回卒 K.K.
 富校時代の思い出は、部活の野球漬けの日々ですね。 当時は体育系の部では、もっとも遅くまで練習し、土日も練習試合でお盆、年末年始と強制的に部活禁止となるテスト期間くらいしか休みがなかったように記憶しています。

 土日は富山在住のOBが、ありがたいご指導に来て頂きノックの雨がよく降りました。
 そのおかげもあって、3年生が抜けた秋の大会前の練習試合で富山商業と引き分けるまで力をつけるようになりました。 私の2年生の夏の県大会ではベスト8までだったと思います。 2回戦の魚津高校戦で勝ち越しのライト前ヒットを打って、富山テレビの放送に短時間で載った良い思い出があります。
 さらに3年生になって、練習試合で富山商業に勝つまでになりました。 場所は富商のグランドだったのですが、当時の富商は練習試合で県内の相手に負けると監督が部員全員をグランドを走らせる罰則を与えていました。 (ちなみに現在の富山商業の監督は私の1年後輩で甲子園へ確か2度導いているはずです。上記のような指導はしていないでしょう)

 しかし、夏の大会では2回戦で東高校によもやの敗戦。富山新聞には「強豪 富山高校敗れる」という記事を見ました。 敗戦の日、3年生全員がある部員の家へ泊り込んで翌日の夏季補習授業もサボったものでした。
 そして、その次の日は担任から「昨日は大目に見る。今日からしっかり勉強しろ」と思いがけないほど簡単な注意で終わったように思います。

今でも野球部OBとの交流は続いています。 しかし、同級生、同窓生となると仕事にプライベートに忙しい世代でもあり、交流する機会は少ないですね。

地理的、時間的な制約がないインターネットでの情報交流の場は大変ありがたいですね。 100回生以上の投稿が多いようですが、2桁台卒業生ならば話題もだんだん、提供したいものですね(就職相談、結婚相談??etc)。

校舎全焼 84回卒 青木俊彦
 84回卒業生です。私が高校3年になりたての5月、つまり1971年に木造の校舎が全焼しました。 友人から夜の10時過ぎだったか電話があり、驚くと同時に自転車に飛び乗って<現場>へ駆けつけました。 遠目にも空が赤いのが分かりました。
 いよいよ現場に近づくと何台もの消防車や野次馬の群れ。 校舎は懸命の消防作業にも関わらず呆気ないほどに容易く燃え上がっていました。 私にとっても想い出深い校舎が見る見るうちに煙になって消えていくのです。
 翌日の朝、学校に来て見ると黒い木屑が一面に広がっているばかり。 あるのは理科室や体育館など比較的新しいコンクリート製の建物だけ。
 教員室なども灰燼に帰しているから3年の生徒には翌年に控えた試験は、成績の記録などはどうなるのかと心配する人もいました。
 夏にはプレハブの校舎で教室にはクーラーなどありませんから、氷柱を設置して気休めしながらの勉強の日々でした。
 インターネットで検索したら富高の非公式ホームページが開設されていると知り、思わず投稿してみました。

想い出 ?期生 GIMEL
 高校の時はよく喧嘩をしたもんだ。
 思い出すのは一年の宿泊学習。クラスの男子全員相手に大立ち回り。 一番強そうな奴ら三人を倒せばあとは雑魚だろうと思って殴ると、あっけなくぶっ倒れた。 なーんだ、やっぱり勉強しかできないんだ、なんて思ったよ、その当時は。

何とかの何乗 98期生 Cauli.
 確か昭和59年の秋だったと思いますが、当時校長をされていた木下周一先生(数学)が我がクラスで授業をされました。校長先生が何故授業をされたそんなことをされたのかは記憶にありませんが、校長なのに数学の先生だと憶えているのはこの授業のせいです。
 その授業で取り上げられたのが、いろは四十八文字を使って三十一字からなる和歌は何通り作れるか、という問題で、江戸時代に越中の和算家が計算した結果が残されており、県情報処理教育センター(当時富山工業高校構内にあり、理数科実習でも使われた)のコンピュータで48^31を計算してみたら一致した、という話でした。
 実はそんな授業があったことを思い出したのは平成になってからでして、文春文庫になった日本エッセイスト・クラブ編'84年度ベスト・エッセイ集にその話が載っていて、どっかで聞いたことがある話だと思ったら著者が「木下周一(富山高等学校校長)」、掲載誌が「富山高等学校図書館報」になっていたのがきっかけです。
 #しかし、図書館報なんていうマイナーな雑誌から誰がベスト・エッセイ集にノミネートしたんだろう?

歴代最低最悪生徒会長 109期生 不可
 なんだか懐かしいのう。 大学に入ってからあんまり地元に帰るひまがなくって、みんなにぜんぜん会えないんだよね。辛いわい。 でもほんと高校は楽しかったよ。なんか部活しに行ってたって感じだったけど・・。
 去年、久しぶりに富山に帰ったとき、何かすることなくって夜な夜な友達と富高に侵入しに行ったんだよね。 やっぱいいとこだわ。泣けてきたね。思い出がどっと湧き上がって来たっす。
 多分歴代最低最悪と自分で自負する生徒会長だった頃、授業サボってマクドナルドに行って帰ってきたら先生が待ち構えていてこっぴどくしかられたり、先生に挨拶した瞬間タバコが落ちてジ・エンド。 昼休みに部室でエロ本みんなで見てたら先生登場、ジエンド。うーんなんだか激しいな。 マガジン発売日とジャンプ発売日はいっつも1時間目に出ず、2時間目出勤おかげで物理が出席数たんなくなりそうになって、あんときゃ先生に言われんかったらまじで留年してたかも。
 でもそんな僕も、勉強したらしく今じゃ、ちゃんと大学行ってます・・?
 みんな元気かい!!もし俺が誰かわかったらメール頂戴。

石のオブジェ 90期生 S
 みなさん、こんにちは。90回生のSです。みなさんは、校舎の西中庭にある石のオブジェのことをご存知でしょうか。  私が、富高1年生のたしか6月に、山岳部の山崎さん(3年生だったかな)が、僧ケ岳で遭難され帰らぬ人となられたことを慰霊するために建てられた碑です。  遭難が判明した当時、学校内は大騒ぎで教員全員が交代で遭難救助隊となり、当時立山自然解説員だった長崎先生などは、疲労のため授業どころではありませんでした。  あれから相当の年月が経ちますが、山が大好きで、富山県人の誇りである立山・剣をこよなく愛する私は、同じ学び舎で純粋な夢をいだいて学究にはげんでいた仲間が、志半ばで帰らぬ人となったことに、今も心を痛めています。 私は富山に帰省したときは必ず、かつての通学路(丸善パンの前の道は廃道ですが)を自転車でたどり、遭難慰霊碑にお参りすることを常としています。

おもいで@109 109期生 HH
 偶然このHPを見つけてかなり驚き、すごく嬉しいです。
 富校の3年間はとにかく楽しかった。勉強も確かに大変だったんだろうけど、ほんとーに楽しかった。 学校が終わると、W田先生と愛を語り合い、帰りはダーリンと下校。友人にも恵まれてとにかく楽しかったなぁ。
 富校は進学校とも言われているけれど、部活や体育大会にも力を入れていて、まず先生方が大変楽しそうだったのがすごく良かった。 だから、よい環境の中でのびのび過ごすことが出来ました。卒業してもまだ、メールをくれるS水先生も大好きです。 富校に戻れるものなら戻りたい!
富校のおもいでのつづきへ
 まだまだあります。現在のおもいで30話!

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