富校のおもいでのつづき
 おもいではまだまだあふれてきます。敬称略。イニシャルは姓、名の順です。
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おもいで@90 90期生 吹奏楽部OG
 私たちの頃は、圧倒的に男子の数が多くて、理系クラスは9割、文系でも6割以上が男子でした。
 吹奏楽部も同級生は男子15人に女子が5人しかおらず、練習の前半は、運動場をランニングしたり、校舎からミルクホールへの通路で腹筋をしたりと、運動部のようなハードな毎日で、すっかり骨太になりました。 練習は、今でもミルクホールでやっているのでしょうか。 コンサートの前など、夜10時頃まで練習があり、ミルクホールのストーブの上で、おもちを焼いたり、やかんでお湯をわかしてカップ麺を食べた思い出が浮かんできます。
 冬には全校で「寒稽古」というのがあり、朝7時半に登校して、男子は柔道か剣道、女子は縄跳びを1ヶ月間させられました。 最終日には試合があり、参加者全員に富校の校章をプリントした日本手ぬぐいがもらえました。 ちょうど今の季節なのですが、こんなこと、もうやっていないでしょうね。
 硬派でイモでガサツ(野蛮)というイメージの富校だったので、今では女子の数が多いと知り、随分雰囲気も変わって明るくお茶目になっているんだろうなあと思います。

熱心な富校生 111期生 幸之介
 90回生の話では、授業をしている教育実習生に生徒たちがマニアックな質問をしまくり、泣かせたことがあるらしい。

体育大会〜〜〜☆ 112期生 にゅ〜
 体育大会、疲れた〜。けど、リーダーやってよかった☆ 応援合戦終わった後、リーダーみんなで、大泣きしたもん!! 結果はどうであれ、(あたしの心の中では、うちの団が1番!)こんなに感動できる応援ができたのはすばらしいことだよ! 泣いてたのはうちの団だけだったらしいけど・・・。(笑)思いっきり青春でしたっ☆

マーク模試2 111期生 幸之介
 判定枠すべてに女子大を書くやつが友達にいましたねー。あと南から順にAをとって全国制覇を目指してたのがいた。九州大で挫折してたようだけど。(^^;

マーク模試? 107期生 謎
 マーク模試と言えば思い出すのが名前の詐称でしょう。 基本的に人間の間でのやりとり(先生から生徒とか)は書いてある漢字の名前が使われますが、成績表にはマークした名前(片仮名)ででますよね? ということで、上位成績者の名前を見ると「はぁ?」ってのが並んでいたわけです。私のクラスの奴にも居ました。
 #まあそれは一文字変えるくらい私でいうなら「タツヒコ」
 #を「タツヘコ」にした感じです。
 他の学校では皆校外で受けているのか知りませんが個性的な名前が踊っていました(^^;
 今でも印象深いのは「アカズキンチャチャ」です。校内で受けてそれやったら、死刑確定!って感じでしょう(笑)?

雪合戦2 105期生
 いいねー,雪合戦。懐かしい!俺らが1年の時にすごく積もって1体の2階の窓から飛び降りた記憶があります。 もちろん,雪合戦もしましたが。屋根から滑り落ちた雪がちょうどいい防壁になりました。

雪合戦 113期生 なっちゃん
 今日は、雪合戦をしました。ひさしぶりで楽しかったですよ。高校生とは思えませんね。(笑) おかげで髪はぬれてコートとスカート(制服)は凍ってました。でも。こういう時間も大切だなぁって思います。そうですよね。きっと。

ネーミング 112期生 NK
 数学の問題集、「数学の国」もやらねば。ところでこの名前付けたのは、相*先生と聞きました・・・。凄まじいセンスしていますね。

113期生 なっちゃん
 今年の1年生は第1期の宿題を出さないと”おしおきテスト(名前もこう印刷してある)”というものを受けなければなりません。 これは、1回目と2回目、3回目・・・・と延々と合格するまであり、全て問題も違うというくせものです。 22日に提出だったのですが、すでに何十人かが苦労した模様です。 まぁ、これも先生方からのプレゼントですかね。注:私はきちんと出しましたが。

富校のカップル 105期生 清水英樹
 受験シーズン真っ盛りでふらふらしていようものなら,学年通信?みたいのでイニシャルで罵倒されていました。 SとF,TとDとかね。105回生には懐かしいかもしれませんが。

模試のおもいで 107期生 謎@107
 大学別模試と言えば、私も現役の時に駅の裏のどこだかに受けに行きましたが、 何を考えていたのか、それとも自分が時間を考えずに居たのか今ではわかりませんが^^;、 数学の時間の真っ最中にあたる時間に食事の約束を入れてしまうという「ダブルブッキング」をしてしまって、 数学を15分で退室した事がありました(笑)。

有刺鉄線 105期生 清水英樹
 そういえば、ふと思い出したんだけど、運動部の部室の裏の窓にはまだ有刺鉄線があるのでしょうか? むかし、窓から入ったりしていたのがばれて、俺らの頃に鉄線ひかれたんですけど。 窓から潜り込んだ最後の世代だからね、有刺鉄線には歴史を感じます。

文活覗いてきました 98期生 津幡@98
 たまたま前を通ったところ、文活やってたので覗いてきました。千葉在住でめったに前なんか通らないのに凄い偶然です。
 1-4のクラス展示で蜃気楼発生装置のデモをやっていたので、いろいろ質問してしまいました。 あと、放送部出身なので、放送室で「昭和58年入学の津幡です」と言ったら、「わたし昭和58年生まれ」と言われ、自分が歳食ったことを実感しショックを受けてしまいました。 それでも、自分が制作した番組で取った賞状がまだ飾ってあったので、何とか面目を保った?!のですが。 行くつもりはなかったのでいい加減な格好をしており、下手すりゃ「変なおじさん」ですもの。
 #それでも「変なおじさん」だったと言わないで。>在校生
 職員室前の座席表を見た限り、当時お世話になった先生方がおられないようだったのが残念です。 まぁ、あの頃生まれた赤ちゃんが通学しているような時代ですから、やむを得ません。

卒業後・・・ 105期生 山藤奈穂子
 1年7組→2年7組→3年6組 ( 2年間・・・離れ小島に・・・)で、あだなは「ぶどう屋」でした。 なぜなら「山藤ぶどう園」の娘だから・・・はやいもので卒業してからはや・・・んー数えたくない!! 卒業後お茶の水女子大へ、そして今は文教大学 人間科学研究科臨床心理学専攻で 臨床心理士への道をあゆんでいます。 105期生は大学院行っている人が多いような気がするな〜。
 こんなぺーじがあるなんてとっても素敵ですね!!いいな〜。 文明の利器が新たな出逢いを生むのね・・・。 ここへは「ゆびとま」からリンクをたどってやってきました。1年の時のクラスメートや応援団の時の後輩を見つけてとっても嬉しくなって。 富校生の団結力というか仲間意識というかそういうのってなんだか強いのよね。やっぱり楽しかったからかな? 夏休み春休みには育英センターで塾講師のバイトをしてるんだけど思わず中学生の生徒達に富校を勧めてしまう私でした。
 卒業しても連絡を取り合っている人たちは多く、このごろは結婚話が多くて困っています。この学校を出た子はみんながんばってるよ。 素敵な大人になっていっている感じです。在校生のみんなもがんばってほしいな〜。 受験勉強とか苦しくなるときもあると思うけど、人生ってやっぱり楽しいですよ! 育英センターへ来てくれたら教えてあげるけど・・・(-_☆)きらり
 また、このHP拝見させていただきます。がんばってくださいね!! 何かこのカウンセラーの卵のわたくしにお手伝いできることがあればお申し付け下さいな!

今になって思うこと 92期生 K.S.
 高校時代は化学部でいつも花火をつくったりして毎日のように化学室で遊んでいた。 担任は、吉川という東大出たての数学教師。化学部の顧問は、丸箸という名の先生であった。 部活動で印象に残っているのは、1年の時に部長に誘われて、三よう化窒素 (これは、刺激が加わるとパチンと弾ける火薬のようなもの)を作って、卒業式だったか何かの式にそれをまきに行ったことである。 割とうけたようで、結局、先生からこっぴどく叱られた。この時の共犯は、井上先輩と同期の藤林、竹内だったと思うが、定かではない。 あの頃毎日のようにこれに類することしかしていなかった彼等とも全く会っていない。
 今になって思うとあの頃は、自分が何物なのか何をしたいのか全く分からなかった。分かってないということも分かっていなかった。 気分の赴くままにしか生きていなかった。青春を楽しんだという記憶がない。ただ元気だった。 もうちょっと青春してたらなあと今になってやや後悔している。
 僕が後輩達に言いたいのは、なによりもまず、青春して自立すること。この一語に尽きると思う。

理数科のおもいで 105期生 M.S.
 理数科でしたが、サッカー部で部活ばっかりやってました。僕の代の理数科は成績的には最悪でしたね〜。 よく、先生方に”「理数科」ではなく「離数科」だ”なんて言われてました。(笑) 懐かしいですね。 今、サッカー部はどうなんだろう? 僕らの時は、一つ上の先輩が新人戦で2位になったのですが。

体育教師、恐るべし。 107期生 F.T.
 富校では通学自転車には学校の許可が必要で、学年別のシールのない自転車に乗ってくると、なぜか放課後自転車が無くなっているんですよね。 僕は当時珍しいサスペンション付きのマウンテンバイクに乗って通学していましたが、お気に入りだったので断固として富校シールを貼ることを拒んでいました。
 当時富校の体育教師はたいへんな怪力で、シールのない自転車を2台かついでは何十メートルも運び教室からは注目の的でした。 そんなわけで僕も3年間で3回その先生には自転車を運ばれてしまいました。 3回なんてたいして多くはないのですが、3回目は特に驚きました。
 これなら運ばれないだろうと大きな鍵で自転車を柱にくくりつけておいたら、更にその上から自転車がチェーンでグルグル巻きになっていたんですね。 先生の方が一枚上手だったわけですが、その先生がリヤカーを持ち出して大量輸送し始めたのはもう少しあとになってからでした。おわり。
 ここで耳より情報。大学へ進学されるみなさんへ。大学生になったら車に乗りたい人もいるでしょう。 金沢大学工学部は気を付けてください。許可されていない車を乗り入れると1週間クルマ止めを付けられてしまいます。 更に工学部は交通の便も悪く高台の上なので、心臓破りの坂を上がることになります。

体育館改修によせて 106期生 N.M.
 そうかそうか体育館改修か....そうとう古くなってたしなあって、あれ?ミルクホールの方が古くなかったっけ? 前に合奏中に椅子の足が床の穴にはまり、椅子ごと楽器ごとこけてしまったのはなにを隠そうこの私です。 でも床を張り替え、天井も張り替え、アルミサッシもいれて、まだ当分建て替えるつもりはないみたいですねえ。 どうもこの高校は体育系の方に予算がいってしまうらしい....(文化系部活出身者のひがみ....)

富高体操 106期生 N.M.
 今でこそ懐かしい思い出となった富高体操ですが、当時はなんでこんなのやらなきゃいけないの?とやるたびに思っていました。 実はこの体操、うちの部活の先輩のお父さんが富校の体育教師だったころに作ったものなんだそうです。 当然体操への文句は先輩の前ではいえませんでした。(そんなことはない?) でもその先輩が言うにはこの体操、作った先生本人もこんなに長く続くとは思っていなかったそうです。

昭和44年当時の富山高校 83期生 K.F.
 僕が高校を卒業した直後の昭和46年春に木造だった旧校舎が火災で焼失したという知らせを東京で聞きました。 大分古くなっていたので建て替えの話も出てはいましたが、明治時代を彷彿とさせる洋館風の校舎を誇りに思っていましたから、心底残念でした。 仮に建て替えることになっても、特徴のある正面玄関棟については保存する計画もあったようです。 僕は、今でも旧校舎で学べたことをとても幸せに思っています。 当時、妹は中学生でしたが、やはり旧校舎で学べることを楽しみにしていましたから、旧校舎が焼失した知らせを聞いて「楽しみにしていた校舎がなくなった」と大声で泣いたという話しを後で家族から聞きました。 その妹も現在の校舎になってからの富高を無事に卒業して現在は2児の母親になっています。
 さて、僕が高校の頃は、昭和44年に東大の入試が中止になるなどいわゆる学園紛争が盛んな時で、高岡高校にヘルメットが入ったとかの噂が飛んでいましたが、富山高校は比較的落ち着いていました。 僕はその時たまたま生徒会長をしていましたが、生徒会批判の声がとても強くて、生徒総会で質問に答える都度、賛成側と反対側双方から野次や拍手喝采が起きたり、 生徒会室には、共産党に類似したような組織に生徒会を改革をすることを主張する生徒数人が常に訪れて、僕は四六時中彼らと議論をしていました。
 そんな中で、生徒の強い関心を集めていたのが長髪解禁の問題です。当時は県立高校の男子生徒は長髪禁止で全員3分刈りか5分刈りでした。 しかし、生徒のアンケートを実施した結果、過半数の生徒が長髪解禁を望んでいることが明らかになったので、校長室で私と当時校長であった辻先生の二人で差しの交渉をすることになりました。 当時の多くの先生方は長髪にすると非行が増えるかもしれないとか生徒がオシャレに気を使うようになって勉強に集中できなくなるとかという理由で長髪解禁に反対されていましたが、交渉でのやりとりの最後に辻校長が、 「時代というものは変わるものである。今は、長髪にするといけないといっているが、時代が経てば短髪がおかしいということになるかもしれない」と言われて長髪解禁を決断されました。 僕は、その言葉に大変感銘を受けました。当時、富山高校の校長は県の校長会の会長でもありましたから、校長会長校が長髪を許可したことから、長髪解禁の動きはたちまちのうちに他の県立高校に広がりました。 後から振り替えれば、時代の流れであったとの説明も可能だと思いますが、たとえそうであったとしても、時代の変化の最後の一押しをする人がいるかいないか、その時に決裁権限のある人がどんな人柄か、によって事態の展開の仕方が大いに異なると思います。
 この他にも、辻校長は、運動会の挨拶の時に、「よく遊べないものは、よく勉強もできない。今日は大いに遊びなさい。」とスピーチされたり、 昼食時の食堂で、生徒の長い列の横から特別に食事を出してもらっている先生が多い中で、きちんと生徒の列の後ろに並んで、前に並んでいる生徒と談笑されるなど、直接授業を受けることはなかったものの、多くのことを先生から学びました。
 また、当時、ノーベル物理学賞を受賞された湯沢秀樹博士が富山で講演された際、数学を担当されていた森田先生は、講演が平日であったことから、「こんな所で数学の授業なんか聞いとらんと湯川博士の講演聴いてこられんか」といって、 講演に出席希望の生徒を自分の授業から抜けることを認めるとともに、ご自分は生徒が抜けて空っぽになった教室の掃除をしておられました。 他にも、英語の八木先生、国語の江尻先生、英語の金森先生など思い出深い先生は多いですが、これらの先生の口から、今年東大何人というような言葉はついぞ聞いたことがありませんでした。

全国模試の虚像 107期生 I.T.
 富山高校では(今はどうか知りませんが)1年の時から全国模試(通称?校外模試)を受けさせられますね。 校内のテストより何段も簡単で如何に自分たちが恐ろしいテストを受けているのか実感できる場でもあります:p。 さて毎年、富山高校で何人かは全国トップクラスに名を連ねます。 全国で10本の指に入る奴が同じ学年に居る!これは大変すごい事のように思えます、がちょっと待った。
 高得点者欄をよ〜く見てみましょう。何か気が付きませんか?
 そうです。開成・灘等の東大エスカレーター(笑)校の人が居ないでしょ?彼らは入学したときだけ頭が良いのか?もちろん「NO」。 実際彼らは2年後半からしか参入しません。しかも、ほとんどの生徒はそんなもの受けない。なぜなら絶対東大に受かるから(笑)。 慶應付属等から外に出る人も滅多に受けません。そういう人は内部推薦を蹴るくらいですからめちゃめちゃ頭が良い。
 #実際話を聞けば、付属の人は進学用の勉強をしないぶん時間があるのでものすごい「勉強家」とものすごい「遊び人」のどちらかになる人が多いらしいです^^。
 そうです、あなた達が見ている成績表の上にはまだ1000人単位で上位成績者がいるのです!
 だからと言って、校外模試が良くても大した事ないということはありませんよ。 高校生の目標はあくまで大学入学。決して全国に名を轟かす事ではないはずです。 私が言いたいのは、順位や得点に一喜一憂することなく、自分の弱点や得意なポイントを押さえそれを自分の目標に結び付ける事が大事だと言いたいわけです。
 教訓めいたおもいでですが、上記の事に気づいた事が私にとってはまさに「富校のおもいで」です。

全国模試の虚像Again 107期生 I.T.
 全国模試といえば、早い人は2年から受ける大学別模試。 各大学の傾向・設問形式に合った問題が出されそれに慣れる事ができるという点から受けておいて損はないテストであったと記憶しています。 私は東大模試を受けていましたが....これが難しい。特にS台。 私は現役の頃は数学が非常に得意で、少なくとも解法がわからないなんてことはなかったのですが、あのテストは異常でした。 もちろん、解けない問題ではありません。 ある程度数学的カンがあれば容易に問題の意図するところがわかりますが、その後の計算も面倒なのが模試の嫌なところなわけです。
 しか〜し、実際、そんな問題入試では出ません。はい。絶対出ません。解けなくても全然平気。問題の形式だけ慣れておきましょう。 問題の難易度は赤本でも見た方が良いです。
 私は初めて大学別模試を受けたとき、用事があって15分で出たのですが目的の場所に向かう間、「ああ、あんな問題、入試の緊張感の中で解けるわけない....」と大変悩んだ記憶があります:)。 実際の問題は1時間位寝てても平気です(笑)。 少なくともどんな大学でも富山高校の実テを超えるような問題はそうそう出ませんし、万が一それが出てもその中で予備知識無しで解ける人は10人位です。
 大学別模試が実際より難しいと気が付くまで、今まで遊んでたのを返上して勉強にいそしんだのが懐かしい思い出です。

素晴らしき我がクラス Vol.1 107期生 I.T.
 きっともう時効なので、クラスの事を書いても誰も文句を言いますまい^^;。 私は3年間同じメンバーと同じクラス、つまり理数科でした。 理数科というのは、毎年交互に「変なクラス」「まじめなクラス」となるという話を聞いた事がありますが、私たちのクラスは「変なクラス」だったに違い有りません。 その中でも特筆すべきエピソードを紹介していきましょう....。
 あれは、富山県で高校総体が開かれるという年、全校生徒に紙が配られ「総体のテーマを書け」というお達しが来ました。 先生の対応からして他のクラスはほとんどまじめに皆書いていたようですが我がクラスは違いました....。 そのお達しから数日後の体育の授業のある日、先生は授業の前に話があると皆を集めて座らせました。 言葉は多少うろ覚えですがだいたいこのような事を言われました。
「おまえら、高校総体をなんだとおもっとるんだ!テーマだせっていっとるのに、5人しか出しとらんじゃないか!」
「しかもその5人!何だこれは!」
「『スポーツだけが青春か?』」(床に投げ捨てる、以下同)
「『カメパンダに愛を?』なんだこりゃ」(注 ある人のあだ名)
「『ルート2GRで飛び出せ』」(これ私書きました)
「『わざわざご苦労様』」(....)
「『(ごめ〜ん思い出せない)』」
「明日までにもう一回書き直してこい!」
5人しかだしなくて、その5人めちゃめちゃ^^;。 私は第二宇宙速度で地表に落下しないで突き抜けるくらいがんばれ!っていう意味でしたが伝わらなかったようです(当たり前)。 もちろん、この話の間全員、笑いをこらえるのに必死でした。私は初めて笑いをこらえるのに、自分をつねった記念すべき日でもあります。
 私は体育の後教室に帰って、ふと「なぜ男子だけおこられたんだ?」と思ったのは言うまでもありません(おこられたんだろうか?)。
 #名誉のために申せば、後日理数科が提出したテーマの中から総体のテーマが選出されました。やるときゃやります^^。

富校恐るべし.... 107期生 I.T.
 期待に満ちて富山高校に入学してすぐ、新入生テストというものがある。 皆まだ緊張しているので真面目にテスト勉強をしているような時期でもあります(笑)。 さて、その時私はというと「どうせ中学の内容だ。勉強する必要もない」と思いつつ勉強するという、やはり若かったわけですが、そんな中受けたテストはやはり非常に簡単に思え、正直「ああこれはトップ間違い無し」と思いました。 そして返却された答案。300点満点中289点、一問1点というわけでは無いですから私の思いは自信へと代わっていったのです....ところが....。 結果から言えば私は3番でした。もちろん順位は公開されませんが分布表を見れば一目瞭然。 290−300の間に二人、二人も居たのです。そして最高得点欄には297点....。 半分くらいの方、特に各中学トップクラスで鳴り物入りで富山高校に入学した多くの人が「上には上が居る」と思う時期でもあります。
 まさに、「富校おそるべし」と言った感じです。

玄関前胸像の謎 107期生 I.T.
 多くの方は全く気にしていないでしょうが、玄関近くに胸像が立っていますね。 部活の関係でたまに玄関から入っていた私は、ある日気づいてからあれは何なのだろうとずっと思っていました。 ある日、当時部の顧問であり、OBでもある先生が偶然にもその胸像の話をしてくれました。 何でもこの学校の国語の教師であった人らしく有名な方らしいです。ここらへんはうろ覚えです。 もちろん、顧問の先生の話は銅像となった先生の偉さを伝えるものでは無く、現役時代にその胸像の向きを替えて逃げたという話でした(笑)
 追伸・私も試しましたが、今では固定されて向きを変えることはできません。残念。

ミルクホールの思い出 107期生 I.T.
 吹奏楽部は昔も今もミルクホールと呼ばれる、購買部のある建物で練習している。 今は改修されているが、昔は隙間風がひどく床が脆い、伝統としての価値以外には迷惑至極な存在であった。 合奏中に響く隙間風の音も寒さを倍増させる事も多かった。 さて、「迷惑至極」と言えば吹奏楽部そのものがそうであったとも言えよう。 それはなぜか?前記の通り、ミルクホールは購買部があり、ジュースの自販機がおいてある。 当然運動部の人間はここに憩いを求めてやってくるのだが、そこに立ちはだかるのが我が吹奏楽部。 もちろん普段は何もないのだが、合奏となると話は違う。先生が居て、全員が集まっている。 自販機までたどり着くのに、幾人もの部員をかき分けていかなくてはならないのだ。扉を開ければ、全員の眼が自分に集中する。 そんな時、人はどうするか?3年間見てきて、当然ながら「そのまま帰る」人が圧倒的に多い。 男子より女子、複数人より一人が圧倒的にそのまますごすごと退散する確率が高い。 そして忘れてはならないのが、高学年に行くほど遠慮する数が少ない。 ということである。慣れがあるのだろうか。部員に知り合いが多い人も平気な顔をして入ってくる。 今、恐ろしくて入れない君も、富山高校生としてベテランになる頃には気にせずミルクホールに突入し数々の敵(部員)を乗り越え、勝利の美酒を堪能できる日がくるだろう。
 個人的には騒がなければ入ってくる権利はあると思ってました。

富山高校は竜頭蛇尾か? 107期生 I.T.
 1年生の頃を思い出すと、あらゆる事が厳しかった記憶がある。やれ学ランが短いだの、髪の毛が長いだの、とにかく厳しかった。 初めての授業のとき、先生がものすごい勢いで怒っていたのを今でも覚えている(注 話を聞いていない生徒が悪いんだが)。 ところが、である。2年、3年にいくにしたがい、何か気が付かないだろうか? そう、どんどん甘くなっていった。服装検査当日だけまともな制服という輩が(私も含めて)大変を占めていたと思う。 校門検査など、朝練でそれ以前に校門入りしていた私には何の意味も無かった。 そして先生も変わる。初めはあんなに恐かった先生も実は面白い先生だと発見できたりする。 つまり頭は厳しくしてるのに、尾に行くにしたがってどんどん甘くなっていたのである。では、これは竜頭蛇尾だったのだろうか?
 そんな事は無い。私的見解ではあるが、これは信頼に基づくものではないだろうか? 服装の乱れは心の乱れなどという言葉を信じてる人は希有であり、乱れか個性かは一概には他人には判断できないわけで、相手が信頼できる人間であれば度を越さない限りある程度許容できる土台も富山高校にはあったわけである。 同じ格好をしていても、1年は怒られる事もある。これは馴れ合いではなくまだまだ中学生気分な幼い1年生に対する配慮でもあろう。 私は自分で言うのもなんだが、個性的な(笑)格好をしていたものだが、その格好で職員室に出入りしていた。 たまにお小言をいただくときもあったが、強制を促すものでもなかったと記憶している。
 まだうるさく言われる人現役生は、自分の行動を見直してみてはいかがでしょうか? もっと職員室に行って、質問してみましょう。

高校のおもいで 87期生 N.S.
 堀川中学校3年生の春、昭和46年でした。確か修学旅行から帰った日だったと思います。富山高校旧校舎が全焼しました。 高校の近隣には友人もいましたが屋根に水を掛けていたと思います。風の強い日でした。空は一面赤くなり、火の粉が舞っていました。 翌日あらためて焼失した校舎の前に立って呆然としたものです。
 翌年の入試は、もちろんプレハブ校舎でした。休憩時間は霙に濡れながら体育館へ駆け込みました。 入学して、やはり多くの生徒はプレハブ校舎でした。新校舎が完成するまで、夏は摂氏40度位になる教室で勉強したのでした。 わたし自身は、担任が生物の先生であったため、理科館の生物教室でした。理科館は涼しかったですが、標本に囲まれての授業というのも気味の悪いものでした。 わたしの記憶違いあるいは勘違いでなければ、確か生物教室にある人骨は本物だったと思います。
 新校舎が出来て、それは嬉しかったものです。新校舎は屋根があるでしょう。あれは珍しかったのです。 よくある鉄筋あるいは鉄骨コンクリートビルというのはフラットルーフが多いですが、フラットルーフというのは雨が少ないエーゲ海あたりに多いもので、日本の気候には本来合わないのですね。 コンクリートは、雨漏りが生じると調べるのが大変なのだそうです。その意味でも、またあの変形H型の校舎は新鮮でした。 意味もなく廊下を歩いたものです(笑)。
 いまは、わたしがいた頃と違って、百周年記念館など新しい建物が出来ているようですね。一度訪ねてみたいものです。 在校生の皆さん、校舎は大切に使ってくださいね。

富校の思いで 96期生 I.Y.
 高校時代は、大変校長室の敷居が高くてなかなか入室する機会がなかったが2度入ったことがある。 一度目は高校2年生の時、高校総体の陸上競技で優勝して当時の校長(確か高松校長だったと思う)に呼ばれてお褒めの言葉を戴いた。 晴れがましいひとときだった。2度目に呼ばれたのは3年生の秋、ちょっとした悪さをしてお叱りを受けるために呼ばれた。 校長室で校訓である「慎重・敢為」を何百回も復唱させられた苦い思い出がある。
 その校長先生が卒業式の日遅刻してきたにもかかわらず、卒業証書を私に手渡したそのとき握手をしてくれた。 もう定年間近の御老体だというのに凄い握力だった。校長が私の手を握ってくれた、その感触を今でも忘れずに覚えている。
 あのときの「慎重・敢為」は今でも私の心の座右の銘となって生きており心の支えとなっている。 この2度校長室に入ったという思いでを共有する友人が一人おりそいつと会えばあのときの事を懐かしく思い出している。

文活のおもいで 111期生 横田幸之介
 1年生、初めての文活。我らのテーマは「見る」。1年5組の気合のは入りようはすごかった。 ガンピは100枚いけば大したもんだ、といわれていたなかで我らはすでに150枚を上回っていた。 と、言いつつとなりの6組は160枚を超えたそうだが。 とにかく、クラス研究というものは、気合の入ったクラスほど完成に時間がかかる。 我らも例に漏れず、連日遅くまで残っていながら本番に間に合うのが危うくなっていた。
 御法度のなか、こっそりと友達の家などで学校外活動を繰り広げたりしたものの、やはり本番間に合わず。 我らの登校時間は5時半と決まった。クラス責任者であった私は、研究班のリーダーたちとともに、1時間早い4時半登校。 まだ暗いうちに自転車をこぐはめになった。ところが、なんと一番乗りクラスはおとなり6組。 上には上がいるものだ、とは思ったが、自分たちのクラスが一番だ、という自信は変わらなかった。
 さてさて、クラス研究に欠かせない「序論」と「結論」のガンピを任されていた私は「一太郎」でA4サイズを制作。 マジック書きが多いなかで、活字とカラーのインパクトは大きいという、先生のアイディアであった。 ただし、このままA4では大きさの点で負けてしまう。そう、拡大コピーするのである。
 学校にカラーの機械はない。しかし、この時間である。機械のある店はおろか開いているところすら滅多にない。 まずは富校生御用達のカメラ屋さんにいき、店の人に起きてもらった。ところがその店の機械はA4まで。 1kmほど離れたカメラ屋さんを紹介してもらった。このころ、教室ではガンピ張りにデコレーションにとてんやわんやであった。
 そんなこんなで、とてつもなくあわただしい朝を送った1年5組。密かに、いや、実は結構期待していた最優秀賞。 結果発表の時はドキドキものであったが、なんと全滅。努力賞すらもらえなかった。ガンピだけじゃあないのね・・・。
 とはいえ、この文活を機に1年5組の結束はさらに強まったことは言うまでもない。 一番乗りは逃したものの、やはり文活の醍醐味は「朝」である。そう、作業の遅れもいいおもいでに化けてくれるのであることだよ。

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